昭和45年08月21日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
この天地の恩恵を恩恵として分からして貰い、その恩恵に対する神恩報謝の生活と言う事が、ならどの様にあらなければならないかと。これはならいろんな歴史を紐解いても同じでありますが、まあ仏教、キリスト教などと言う様な、いわゆる外国から渡来してまいりました宗教、これもやはり、天地のいわば恩恵を説いております。いうなら日々感謝の生活をしていかなければならない事は、もうあらゆる宗教が説いております。
いわゆるそのだから、神恩報謝と言う事をです、どのように現していくかと言う事は、違うのです。そこに私は教祖の御信心の素晴らしさというものを感じます。その「天地日月の心になること肝要」とこういう惜しゃっております。その天地日月の心、天地日月の心をもって、いわゆる神恩報謝の生活をさせて頂くんだと。そこから天地の働きを働きとして現していく。いわゆる人間が信心によって真実幸福になっていく、それはいわば、天地の恩恵をそこにそのように現していくのである。
それを教祖様は、天地日月の心をもって神恩報謝の生活をなさったわけなのである。それを実意丁寧神信心というね。だからこれは違う。同じ天地のご恩に対する、いわゆる報謝の心というのは、みんなが教えられてきた、またそれを行じてきたその行じ方が違うのですね。ですから私共もどうでもそこんところのね、おかげを頂かなければならない。信心をしておれば、これは信心をしていなくてもですけれども、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いとこう。
私今日御神前にやらせて頂きましたらね、大きな車なんですよ。けれどもその車がどこに付いているか分からんのですけれども、やっぱこう回ってるんです。いわゆるその車がここに箱の様なものがあるとするなら、その箱の中に入ってしまってる。車がですからこうくるくる回りよるから、箱が回りよるわと思いながら行ったら、中に車が付いていると言った様な御神夢を頂いたんです。どう言う事だろうか見当がつかなかったら。
今日は、御理解七節はもう何十回となしに、あらゆるな角度から頂いておりますよね。今日は、だからそういう角度から、今日はみなさんにお話を聞いて頂くわけでございます。お道の信心をいたしますと、いろいろなやはり、お道独特の言葉がございます中に、「めぐり」ということを申しますね。あの人はめぐりが深い、難儀が多い人は、よっぽどめぐりの深い人であろう、とこう言う。私はその「めぐり」と言う事をね、私はいわゆるめぐりる、いわゆる車が付いて、どこにそういうね。
めぐり巡って来ると言う事は、どこにそういう原因があるか分からんけれども、その原因ははっきり、こう下から車が付いて来るだけ間違いないのだね。いわゆる「めぐりの世界」めぐりに廻っておるね。ですから善行を施せば、やはりその善の報いがある。悪もすれば悪もまた報いがあることは、まあこれはあらゆる宗教が、やっぱりそういう意味の事を説いておりますからね。仏教なんか特に「因果応報」とかそう言う事を申しますから。まあこれも私はだから、どこにその原因が私どもには分からんけれどもね。
そこに難を受けなければならんなら難を受けなければならない、幸せを受けるなら、幸せのその元というものが必ずあるのだ。だからめぐりと言う事は、悪い意味だけじゃない。良いめぐりもあるわけなんですね。めぐりと。めぐるのだ。仏教ではそれを「輪廻」と言うですかね。難儀な事が起こって参りますと「私の輪廻因縁」とこう申します。やはりめぐりなんです。めぐり廻ってくる。輪廻のだから世界。めぐりの世界。教祖様がいわゆる、ご信心のなさりはじめの頃は。
これはみなさんもご承知の通り、金神様のご信仰から生まれておりますね。あらゆる神様仏様を、そら信心だけは強い方であったから、ご信心をなさったが、次々と難儀なこと、いうならば七墓築くほどしのことが次々と起きてきて、それがいわゆる金神様のお怒りに触れたと信じておられた。そこで当時は悪神邪神のように言われていた金神様。もう金神様がござるところは、閉めきって閉め出す。金神封じをする。そういういわば風習が盛んな時代なのです。
旅立ちをするでも、金神様の方に向こうて行きよるとね、命を取られるという程しに恐れ戦いたんですね。今だってやっぱりその、金神避けとかなんか致しますでしょう今でも同じような。百年前は尚更それが酷かった。勿論迷信ですけれどもです、その迷信とまた一笑に伏すわけにもいけないところがある。そこんところをいわゆる教祖様の、いわゆる独壇場ですね。そういう悪神邪神のように言われておる、知って向かえば命を取り、知らずに向かえば身を取るというほどしの神様。
その神様の怒りに触れて、このように次々難儀なことが起こってくるんだからです、そういう力、そういう働きを持ってござる神様ならです、また命を下さることも、また日を下さることもおできになる力を持ってござる神様なのだ。これは人間氏子の実意が足りないからだ。わがままだから横着だから。そこんところをいわば慎み慎み、いわゆる人間の、昨日の学院の先生の仰った事の中に、「極限」と言う事を言うておられますよね。これですんだとは思いません。
もう人間の努力というか、そのことの限りを尽くすと言う事ね。その限りを尽くして、なおかつ次々とまた難儀が起こってきた。それでもやはり屈せずに、その怖いと思われる、皆が言う金神様へ向かってです、「どこに人間凡夫のことでございますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりません。どうぞそのところは、平に平にお許しを頂きまして、どうぞお向きを変えて下され、お向きを変えて下され」という姿勢である。
というのは、その目を取ったり命を取ったりなさるほどしの神様だから、下さる事も出来る神様だから、向きを変えてさえ下さりゃいいんだと言う所なんです。「お向きを変えて下され」という実意の限りを尽くしての、いわゆる極限なのであるね。そこにですいわば天地の親神様、いわゆる金神様なんです。金神様ももうそれこそほとほとと関心された。自分をみんなが怖い怖いと言うては、自分を封じ込んだりそれを避けたり、もうね障らぬ神に祟りなしと言う様にする人間ばかりであるのにも関わらず。
お前ばかりは、もうどういうふうに試しても、いわば試しようがないと言われるほどしにです、お前の実意丁寧神信心には、もう神の方が負けたと言う様な態度をとっておられますでしょうが。そしていわばほんとに向きを変えられた時には、どう言う事であったかというと、天地金乃神という、それこそ慈顔溢れるばかりの神様に姿を変えられたところから金光教の信心があるね。そういう例えば、天地日月の心と。そこんところがだからもう、どういう宗教を紐解いても、そういうことを説くはないです。
「大地をみだりに汚すなよ」なんていう御教えはないでしょうが、どこを探したってですからですね、いうならばその、金神遊行と言う事のです、これはやはりやはりね、いうならばあるわけなんです。こうやってね。いわば地球が回転しておると同じなんです。回っておる。そこでです私は、もう二十何年前でした。ちょうど鳥栖から御本部参拝をする時に、団体列車に乗り込ませてらって二時間ぐらい、あの時分のね、たいへん不自由な時代ですから、あちらから乗り込まなければなりません。
丁度今どげんなっとりますか知らんけれども、道の前が丸くロータリーのように中にこう、いろんな木を割って丸くこう、ちょうど腰置きにはちょうど良かくらいな具合になっておった。まあ二時間もおりなさるのですからね、そら神様いろいろとお知らせ下さってからね、私は日陰から日陰をこうやっておって、こう座り替えていくわけなんですよね。だから、この一陰がです、決していつも同じじゃないと言う事。今お前は難儀の骨頂の、いうならば日陰に日陰のところを通ってるんだけれどもです。
必ずここに辛抱しておれば、ここにおれば必ず日の当たる時が来ると仰る。それをです私共は、日陰から日陰を追うような生き方をするから、いつも後回しになってくる。いわゆる回ってくる。おかげというものは必ず回ってくるのです。それを俗にも申すでしょう、人間が一生の内、何遍か素晴らしい幸運に恵まれる時があるち。これはもう絶対の理なんです。絶対なんです。ところがですいわゆる運の悪い人ね。それはいつもその日向なら日向と言いましょうか、陰なら陰のところをばっかりを追うて行く。
ここにジッとしときゃいいものをね。焦る、人間が。ね。だから、信心というものが如何に大事なことかということが分かるでしょう。信心によって、御神意のままに動くということが如何に素晴らしいことかということが分かるでしょうが。
慌てんでもええ、走って行かんでもええ。ちゃんとここにおりゃ日は廻って来るのだ。いわゆる「天地金乃神は昔からある神ぞ」とおっしゃる、天地金乃神という神はそういう神様。そういう性格の神様なのだ。ですから信心さして頂く者はです、そのなら幸運なら幸運がめぐってくるのですから、それをピシャッとキャッチ出来れる様な姿勢をね、信心によってお互いが勉強するわけですね。信心はもうほんとせにゃ馬鹿、ほんと信心をせんと言う事はね、自分の例えば我情我欲、または自分の力量でです。
幸せを築こうなんてとんでもない話なんですね。いかにも成程それで当てたと言う様にですね、幸福な、それに当てておってもです、それは必ずまた、長者三代なして言った様な結果になることはもう、非を見るよりもよりも実は、あらたかに分かっていることなんです。信心する者がです、いわゆる家繁盛子孫繁盛というようにです、だんだん繁盛一途を辿らせて頂けれるというのは、そういう一つの原理に基づいてのことなのです。成程金神遊行と言う事もです。
そういう意味においてはだから、いつも同じところにばかり日は当たってはいないと言う事になってです。日向が欲しいならばひなたから日向へ、こう行って行ったと言う事もです、だからこれは、そういう今日の私の言い方からいうと、そうなのであります。そう言う事がね、どこにそげんなるなら、いわゆるその車があってね、回りよるか分からない。天地のそれが働きなのです。天地はなるほど、はやることもなかなければね、すたれることもない。
それこそ終わりはないのですけれども、神様の働きは、いつもそのようにあっておりますけれども、それを、神様のおかげを、いうならば幸福をキャッチする、その心。それを神様のおかげを現していくというためにです、どうしても「天地日月の心」と言う事がどんなに大事なことかと言う事が分かるね。天地日月の心というのをお道ふうにね、一言でいうと「実意丁寧神信心」なのであります。それをここでは天真爛漫とか、地心水心といった言葉で、それをもっと噛んで含めるように。
皆さんが分かりやすいように、その実意丁寧神信心を説いておるわけですね。おかげでも、どのようにして、いわば廻って来るか分からない。けれども廻って来る事は間違いがない。信心の妙理とでも申しましょうかね。それは私どもがです、天地日月の心になっておかげを頂いて、信心していくところから、信心はせんでもおかげはやってある、とおっしゃるそのおかげをね、いわゆる人間の幸福というところに焦点を置いて、そこを頂き続けて行く事が出来ると言う事。
昨日のお祭りの最後に、私が皆さんにご挨拶を申し上げ、ご挨拶というかまあ一口の御理解を聞いて頂いたわけですけれども。その中に先々月善導寺の親先生から頂いた、金光様のお言葉と言う事を皆さんに申しましたですね。「何事も有難うに有難うに受けて参りませんと、物事が成就いたしません」とね。有難う有難う受けていかなければ、物事が成就いたしませんと。信心の私は妙理というのは、有難う有難う頂ける事もですけれども、有難う有難う頂いていけばです、それこそ物事が成就していきます。
しかも、「人間幸せになってくれよ、幸福になってくれよ」という、神様のその願いが成就していくのです。その事をあとからご直会の時に、全部で総代さん方が三人、あちらへ一緒にご直会頂いておられた。岸先生がどうも渕上先生と、「ほんと今日の先生、あなたの話は私どもも聞いとったばってんからもう今日のあなたの話聞いて、また改めて、ほんなこてあの通りじゃんのう」ち言うてから、改めてそう言うておりました。そしてもう、そのこと分かっとるばってん、なかなか出来ん。
だから、なかなか出来んっちゅったらそれまでなのです。妙理には触れられないね。ほんとにその通りだと分かっただけでは何もならんのです。ですからそこんところをひとつ、本気でひとつ天地日月の心をもって、それを受け抜かせて頂いて、物事が成就しませんとおっしゃる、物事が成就するというおかげ。折角願うからおかげを頂いておりましてもです、有難う受けたり受けなかったりだったら、いわゆる受けたり崩れたり、できたり崩れたりしていくわけね。
ですから、ここんところをひとつ、本気で私共が分からして頂いてね、おかげを頂かなきゃならん。今日、御理解七節をね、今日はもうこれはまぁだ大変な事らしいですね。車が見えないけれども、この車が回っておる。私共がどうぞ、日々立ち行きのおかげを願うでしょうが。もうどんな難儀の中にもです、どうぞ立ち行きますようにという願うでしょう。いや、これは願わなくてもです。もう絶対立ち行かにゃんごとなっとるとです世の中というものは。
それを自分で人情を使い、人間心を使うところに立ち行かないね。これはあの例えばツバメなんかは渡り鳥ですね。渡り鳥は海を渡ってやってまいります。あれだけの遠い所からやってくるのですから、やはり翼がその、もうとにかく辛抱ができんというところにはです、必ずそこに止まり木がある。海の中でもです、あると言われております。そういう冥利をですね、ああいう例えば鳥類、これはもう獣類だって同じことですけれどもですね。それをちゃんと体得してしもうとるわけ。
理屈じゃないです。だからああいう冒険をやってのけれるわけですね。もうちょっと翼がですね、疲れたところには必ず止まり木がある。それは鳥類の上にですら、そういう働きを下さるのが天地の冥利なんです。ですからまして人間万物の霊長がね、立ち行かないということは絶対ないです。それを自分の考えで急いだり急がなかったり、いろいろするから、いわゆる止まり木のない、そこで没落したりね、落ち込んだりしなければならない。だからそう言う事を説きますと、これは大変な御理解ですね。
ですから結局はですね、そういう冥利に触れて行く、そこんところをです、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと仰る、目に見えぬおかげというところがです、神様にね、そういう大変な働きをですね、があっておるのですけれども、それが私どもには分からない。それを少しずつでも分からして頂くのが信心。だから私のその冥利に触れて、いわゆる信心の妙境ですね。賀びのいわゆる妙賀です。賀びの妙が頂けてくる。有難いな、勿体無いなという生活。
そこには人に茶碗でも、叩き落としてからでも成功しようなんていう心は、もう微塵も起きてこないでしょう。神様が恵みに恵み、与えに与えて下さるものを有難く頂いていく。そしてこちらの信心の力ができればできるだけ、その恵まれる範囲が広がってくる。どうですか、昨日のお祭りに、何十台からの扇風機が回り続けておった。各部屋部屋には、いうならばルームクーラーが、もう部屋を冷やし続けておる。
ああ私は回ってから不思議でたまらんとは、ちょいとだけ立つ時に、ちゃんとクーラーを切ってからきとりますもん。ばかんごたることばっかりすると思うてですね。いわゆるもったいなかちゅうところでしょう。これはまた入る時に、はあまた暑うなっとるとそれの方がもったいなかね。頂く時にはもうそれこそ頂き続けなきゃいけん、続けることがおかげなんだ。それを始末倹約のごと思うとるから、もうそれこそこげなケチな考え方はない。自分でおかげをせばめていく。
というて、ほんとに必要でないところに、使う様な事は、これはまた神様に対するご無礼ね。そこんところのです、冥利というものを私が心得ておるからです、限りなく恵まれる。だから限りなく使わせて頂く。皆さんそういう世界があるのですよ。それこそお手洗いの水なんかはもう、それこそこんこんと湧き続けておる。「これはもう勿体なか」ちゅうてから止めたらどうなりますかね。それこそ止めるほうがもったいない。そういうところをですね私共は。
今日はこの御理解七節から感じ取らせて頂き、また私も今日は、これはまだまだ大変言葉不足です。けれどもね、「天地金乃神は昔ある神ぞ、途中からできた神ではない」と。というその神様のご性格というかね、と同時に今日は輪廻とかめぐりと。お道の信心ではめぐりという。めぐり廻って来るという。輪廻もそうですめぐり廻って来る。それを信心させて頂いてです、どのようにめぐりが深かってもです、そのめぐりのお取り払いを頂くことができる道であり。
しかもめぐり廻って来るおかげをいつも頂き続ける事が出来る道なのである。限りなくね。それには、だからどうでも私どもがね、いわゆる学院先生が仰る「極限の姿勢」をもってです、いわゆる「天地日月の心」になることに、本気でひとつ行の上に、家業の上に現していかなければなりません。成程これは「天地日月の心になること肝要なり」と教えられておりますが、もうほんとにそれが肝要なのですからね、そして限りなく恵まれ続けるおかげを頂きたいもんだと思いますね。
どうぞ。